人魚姫の決着
■ガンスが人魚姫に会いに来ていた。
「麗しの姫君。
今日はお知らせしたいことがございます」
ふたりっきりの玉室。
ガンスが片膝をつき、大げさな一礼をすると、人魚姫はにこやかな微笑を浮かべた。
「わたくしもお会いしたく思っておりました。
ひとつ、お聞きしたいことがあります」
「なんなりと」
ガンスは人魚姫の手を取ると、ニコリと前歯を光らせた。
「わたくしの声は、殿方をくすぐるとか…。
そのような不思議な力があるのでしょうか?」
ガンスの顔色が変わった。
「も、もちろんですとも。
竪琴のようなあなたの美声は、わたしの心を狂おしいほどまでに震わせます」
「たとえ竪琴といえど、海の音ほどの力はありません」
「女神の竪琴には、海を静める力があると聞きます」
食い下がるガンスに、人魚姫は再び微笑んだ。
「背中の傷は、もうよろしいのですか?
飛び猫の牙は鋭いのですよ」
ガンスは、大きな欠伸をする飛び猫を睨んだ。
「姫さま、誤解です。
その猫がなにをいったのは知りませんが――」
「飛び猫はわたくしの、かけがえのない親友です。
ハンス(仮名)とともに、もっとも信頼のできる者です」
「姫さまはたぶらかされているのです!
ハンス(仮名)ごとき女ったらし、なにをもって信用なさいますか?!」
パンッ!
「無礼ですよッ!」
ガンスの頬が赤く染まる。
「これで満足したでしょう。
退がりなさい!」
ガンスの形相が一変した。
そこにはもう、礼節をわきまえた、ハンサムな王子の面影はない。
「この、たかが人魚風情が!!」
「その人魚風情に、あなたはなにをいったのですか?
よく歯が浮かないものですね。
それとも、その若さで入れ歯というのは、本当なのですか?」
ガンスは残虐な笑みで頬を歪めた。
「フフッ…ゾクゾクするよ、人魚姫…。
僕は大好きなんだ…。
プライドだけは高い、高慢な奴隷人魚を痛めつけるのがね。
その可愛い口から、赤い糸が垂れ下がることを思うとね……
堪らないんだッ!」
毅然と見据える人魚姫に、ガンスが拳を振り上げる。
どすんッ!
乱暴に荷物を落とす音がすると、ガンスは床に背をつけて倒れていた。
どうしてそうなったのか理解できず、ガンスはしばし、ポカンとハンス(仮名)を見上げていた。
「未練だよ。
色男は去るときも、バラを散らせるもんでしょ?」
いつのまに現れたのか。
ハンス(仮名)が、ガンスの手首を絡め、投げ落としていたのである。
「ハンス(仮名)! またおまえかッ!
いつもいつも小さい頃から、俺さまの邪魔ばかりしやがって!」
「小さい頃から、体術は得意だったよ。
何度も投げ飛ばしたこと、忘れたの?」
ニッコリ微笑むハンス(仮名)は、“何度でもそうしてやる”といっていた。
「クッ! 減らず口たたきやがって…っ…!」
痛む後頭部を抑え、フラつきガンスが立ち上がる。
護衛もいない状況では、ガンスに勝ち目はない。
しかも、ここはギルドの館である。
非がどちらにあるにせよ、荒立ったことをすれば、大事は避けられまい…。
冷静さを失っても、臆病者というものは、その辺の計算ができるものである。
「お、覚えてろよッ!!
借りは必ず返すからなッ!!」
捨て台詞を吐き捨て、ガンスが足早に玉室を出て行く。
と。戸口から出た箒の枝に躓き、無様に転んだ。
「くぅ〜……」
ビタンっ! と見事に突っ伏したガンスは、向こう脛の痛みに、玉の涙。
「あ。ごめんなさい。スフィア、気づかなかったの。
大丈夫?」
箒を持ったスフィアは、ニッコリ近づき、ガンスの手をワザと踏んだ。
「ぎゃあぁぁぁッ!!」
「ごめんねぇ〜!
スフィア、汚いからゴミかと思っちゃった〜! てへっ!」
ミジメなガンスは、背中を丸めてすすり泣き。
「お、覚えてろぉ〜!
パパたちにいいつけてやるぅ〜ッ!!」
涙を吹き流しのようにのばし、ガンスは廊下に消えた。
「少々、かわいそうですね」
くすくすと人魚姫は笑っていた。
そんな笑顔は初めて見るような気がして、ハンス(仮名)はとてもうれしかった。
「でも、そうもいってられないよ。
どんな恨みも忘れないんだから。アイツってヤツは」
ハンス(仮名)が肩をすくめると、人魚姫の笑みがフッと途切れた。
「わたくしも、人を見る目はまだまだ未熟ですね。
言い寄ってくる者はみな、ガンスのような輩ばかりだと解っているのに…」
人魚姫は溜め息をつくと、ハンス(仮名)に微笑を向けた。
「ハンス(仮名)、素敵でしたよ」
「い、いやぁ〜あ!」
ハンス(仮名)は途端に、デレデレ、クネクネ。
いつもはダラしなく思える動作も、人魚姫は、今日ばかりは気にならなかった。
そればかりか、照れまくるハンス(仮名)が、とても頼もしく感じた。
「投げ飛ばした後の台詞も。本当に素敵でした。
ああいったこと、……たまにお聞かせください…」
はにかみ人魚姫は、ぽっと頬を桜色に染めた。
“アンタもたまには、姫さまにいってあげなさいよ”
と、ハンス(仮名)の脳裏に飛び猫の言葉が思い出された。
そしてゴクンと唾を呑み込むと、緊張の口を開いた。
「き、君の瞳は春を呼ぶ、東風。
ボクの心を、サカリのついた猫のように、騒がせる。
月に向かって、にゃおーん。
満月に向かってわぉーん。
星の下で、ぽんぽこりん〜♪
今日も宴会、どんちゃん騒ぎ」
目が点になる、人魚姫。
ヤレヤレと溜め息をついて下がる、スフィア。
付き合ってらんないと立ち去る、飛び猫。
白けた空間に、ふたりは取り残された。
「ダメ……?
なんか、こう、歯が浮いてきちゃって……。
歯抜いてくる」
いたたまれず、去ろうとするハンス(仮名)の手を人魚姫が繋ぎ止める。
「…無理しないで……」
俯く人魚姫が、自然なことのように、ハンス(仮名)の手にキスをする。
「華美に飾った言葉は、あなたには似合いません…。
きっとあなたの言葉は、野の花のように、自然に咲くものなのです…」
その頬を染めた微笑は、まるで刺のない小さな野ばらのようだった。
ハンス(仮名)は人魚姫の手を握り返し、沸き上がる衝動のままに言葉を口にしていた。
「守ってあげるッ!!」
込み上げてくる気持ちを、ハンス(仮名)は抑えきれずに叫んだ。
「ボクは姫さまの笑った顔が好きなんだ!!
だからずっと、姫さまの笑顔を守るよ!」
そういわれて人魚姫は、満面の笑顔を輝かした。
「いまの言葉、とても素敵です!」
「ほんと?!」
コクリとうなずく、人魚姫。
「守ってあげるッ!! 守ってあげるヨッ!!」
莫迦の一つ覚えを連発する、ハンス(仮名)。
その愚直なまでに正直な男を、人魚姫はひだまりにいるように、うれしく感じていた。
「ずっと、守ってあげるヨッ!!」
「スフィアのことは?」
スフィアがハンス(仮名)の腕を取っていた。
「スフィアにも、いってくれたよね?!」
「ス、スフィア!!」
ニッコリ笑うスフィアに、どぎまぎ焦るハンス(仮名)。
「忘れたの、ハンス(仮名)?!
スフィアにいってくれたじゃない、初めてのとき!!」
ピシッと、なにかが割れる音がした。
「……ハンス(仮名)、“封印”の時間が来ました」
抑揚のない、人魚姫の声。
「え? ちょ、ちょっと待って!!」
「ねぇねぇ、覚えてるでしょ?
ハンス(仮名)ったら!!」
慌てるハンス(仮名)に、無邪気なスフィア。
「ハンス(仮名)、わたくしにかまわず、スフィアを守ってあげてください」
氷の微笑を残し、人魚姫は目を閉じた。
「ちょっ! 誤解だよぉ〜!」
ハンス(仮名)は川のような涙を流した。
「スフィア〜、誤解されるようなこといわないでよぉ〜。
あれは“初めての時”じゃなくて、“初めて会った時”でしょ?」
「あら、おんなじじゃない。
スフィアはあの時、身も心も、ハンス(仮名)のモノになったのよ!」
スリスリとハンス(仮名)に抱きつき、スフィアは顔を埋める。
「ハンス(仮名)ッ!!」
仁王立ちの飛び猫が、戸口に立っていた。
「アンタ、姫さまの前で、なにやってんのッ?!」
「こ、これは、つまり、――」
のっし、のっしと近づく、飛び猫の恐怖。
心なしかその影は、一歩ごとに巨大化していくように思えるのである。
「だ、だから、ちょっとした誤解で、ね、ねぇ、怒ってる…?
君のような可愛い子猫ちゃんには、怒った顔は似合わないよ?」
飛び猫の形相は、赤鬼のようであった。
「そんなチープな台詞で騙されるかぁ〜ッ!!」
「ぎぃあぁぁぁぁぁぁ〜ッ!!」
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